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鉄鼠の檻 京極夏彦

『鉄鼠(てっそ)の檻』

十代にして肉体労働はしないという誓いを立て、行動よりも思索、体験よりも読書を重んじてきた男。「京極堂」こと中禅寺秋彦。

本業(古本屋)である書物の膨大な知識と、理と言葉を駆使した彼の副業である「憑き物落とし」を堪能できる【百鬼夜行】シリーズの第4作目。

『鉄鼠の檻』で扱われるテーマは仏教と禅、そして悟り。本書を読めば、その歴史を一通り理解することができる(たぶん)。

シリーズものだけど、ここから入っても十分に楽しめるのではないかと思う。

というか第1作目の『姑獲鳥の夏』から読み始めると、なぜか『鉄鼠の檻』まで辿りつかない人がいるので、いきなり本作から読んで欲しいくらいである。

辞書並みの厚さで、上下二段組みにもかかわらず826ページのボリューム。講談社ノベルス版は本で人を撲殺できる、いわゆる鈍器である。

個人的には『鉄鼠の檻』はシリーズを通しても、その本の厚さに納得できる作品として群を抜いていると思う。

とりあえず、読み飛ばしたら絶対に楽しめない小説であることは確か。さらに言うならば、隅々まで読んだのに、ピンとこないし驚きも無いという可能性すらある、恐ろしい小説でもある。

【百鬼夜行】シリーズの他の作品と比べると、どんでん返しも控えめで、推理小説という枠で語ると物足りない所もあるのかも知れない。しかしその分、得体の知れない快感がある。

「自分だけが、この面白さをわかっているんだ」

そんな風に思わせてくれる何かが……。

そうして得た喜びは、伏線を見事に回収したどんでん返しや、衝撃の結末よりも、個人的に響くものであり、自分の中ではいつまでも記憶に残る小説としてカウントされている。



『鉄鼠の檻』は事件の犯人とその動機、ここでカタルシスを得られるか否か?この一点に尽きると私は考えている。

特に動機については、わかる人にはわかる、わからない人にはわからない、というタイプのミステリー。

しかし、京極夏彦の凄いところは、物語の終盤までに読者をわかる人にしてくれることではないだろうか?

そのために必要な過程としての、圧倒的な量(ページ数)であると私は認識している。



悟りの境地を表すために、言語道断、不立文字(言葉や文字では伝えられない)という看板を掲げながらも、他の宗教以上に文字を残し、言葉を使用してきた「禅」という宗派。

はっきり言って、シリーズ中のどれほど難解な謎や怪異と比べてみても、これほど京極堂に相応しいテーマはないと思う。

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