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罪の声 塩田武士

人はなぜ、未解決事件に惹かれるのか?

もしかしたら私だけかもしれないので、「人はなぜ」は言い過ぎかもしれない。

しかしメディアに関しては間違いないと思う。

いまでも定期的に『昭和・平成の未解決事件』的な特集があるし、多くの媒体が取り上げている。下世話なワイドショーのノリから、ルポルタージュやドキュメンタリーの硬派なものまで、その切り口はさまざま。

そして、それら未解決事件を題材にしたフィクションも、数多く作られている。

私はなぜ、未解決事件に惹かれるのか?

私の場合はフィクションからの影響が大きいと思うのだが、順番的にはよくわからないところもある。

はじめに小説(フィクション)があって、そこにはあらゆるミステリーがある。それから、小説顔負けの事件が現実に起きていることを知る。

そして、それは未解決ゆえに奇妙なリアリティーを獲得し、なんだかゾクゾクしてしまう。

そして、それらの事件を題材にしたフィクションも、とループしているような気がする。

不謹慎ながら、ミステリーとして面白くならない理由が見つからない。少なくとも、続きが気になる、先が読みたいという意味では、小説のモデルにするだけでも作者は十分に元が取れると思う。

まぁ、真相や結末に納得いかない場合、こっぴどく批判されるというリスクはあるけれど……。



『罪の声』は、1984年(昭和59年)に起きた【グリコ・森永事件】をモデルにした小説である。

日本の犯罪史上、最も有名な未解決事件と言えばこれか、【三億円事件】のどちらかではないだろうか?しかし、誘拐に身代金。脅迫、挑戦状、「かい人21面相」に「キツネ目の男」と、メディアを巻き込んだ劇場型犯罪ということもあって【グリコ・森永事件】のインパクトは強烈である。

この小説は、脅迫に使用されたカセットテープ(子供の声で録音された)、その声の主と、文化部から社会部に駆り出された新聞記者。この二つの線から浮かび上がってくる事件の真相が書かれている。

時効が成立し、完全犯罪となった事件。もはや調べ尽くされ、書き尽くされた事件に取り組むということは、それなりの覚悟、そして自信があったのだと思う。

この手の未解決事件をフィクションで扱う場合、時間の空白や、注目されていなかった資料や人物をピックアップし、そこに仮説やアイディアを加えるという手法がよく使われる。

しかし『罪の声』は、空白を作家の仮説で埋めるというのとは少し違うような気がする。それとは少し別のところに想像力を使った、といった印象を私は受けた。

よりノンフィクションに近い客観的な事実と生々しさをキープしつつ、当然のことながらこれは小説、フィクションであるという強みも活かしているところが最大の魅力である。

もうひとつの着地点

はじめて読んだ時は、この小説が提示する事件の真相。この一点にのみ集中し読み進め、また引き込まれてもいったが、スリルとサスペンス以外の要素にも、私がこの小説をもう一度読み返したいと思った理由がある。

そこには、未解決事件の犯人は誰か?という、再読では失われる推進力をカバーするだけのものがあると思う。

行程は一緒でも、最後の着地点は、まったく別のところに向けて読み進めていくことなる。



『罪の声』は、小説にしかできないやり方で【真相】に辿り着いたのではないだろうか?

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