モデルは画家のポール・ゴーギャン
それまでフィンセント・ファン・ゴッホ派であった私が、ポール・ゴーギャンのことが大好きになり、今では立派なゴーギャン派となってしまった理由がこの小説。
感性と言うか、審美眼と言うのか?
そういった意味では、まったく自慢できる理由ではないけれど……。
しかし、死んだことによって初めて注目される芸術家や、海外で高く評価されたことによる逆輸入的な人気など、考えてみると小説を読んで画家を好きになることは、それ程ひどい間違いでもないような気もする。
個人的な好みの問題はあるにせよ、偉大な画家の作品。ちょっとしたきっかけさえあれば好きになるのは当然である(と思う)。
それでも、伝記や評伝を読んでここまで惹かれたか?というと、そんなことは無いと断言できる。
『月と六ペンス』は純粋な小説であるということ。ある程度ゴーギャンの生涯を知っていると、逆に違いの方が目立つ完璧なフィクションであるところがポイントだと思う。
私はモデル小説としてハードルを上げ、すこし斜に構えて読んでいたけれど、そんな人間もいつのまにか夢中にさせる物語の力。
もはや、私にとってゴーギャンはイギリス人である(本当はフランス人) 。
絵を描きたいという理由で、妻と子を捨てた男。ろくでなし、卑劣なけだもの、人間の屑。褒めるところなど皆無の男、ストリックランド(ゴーギャン)。
稀有な才能は善悪を超えるのか?
驚いたというか、興味深かったのは『月と六ペンス』に登場する女性たちの心の動き。
この小説を読んだ女性は、彼女たちに共感できるのだろうか?
などと思っていたけれど、彼女たちの反応は自分が『月と六ペンス』を読んで感じたストリックランドという芸術家に対する印象によく似ていることに気付く。
平気で人を裏切り、犠牲にする。そんな絶対に友人になりたくない男に嫌悪感を抱きつつ、それをいつしか自然で自由な生き物、抗うことのできない力のようなものとして認識し、やがて惹かれていく。
なぜこのような下劣な人間がこんなにも素晴らしいものを創造できるのか、その矛盾と不公平さ!
努力は報われず、正直者が馬鹿をみる。もはや清々しさすら感じてしまう。
絵を描かねばならないという、自分でもどうしようもない欲求に突き動かされる魂。
現実の世界では滅多にお目にかかれない、本物の例外がここにいる。
読書の幅が広がる、新訳という魅力
ウィリアム・サマセット・モームの『月と六ペンス』は、私が初めて読んだ光文社古典新訳文庫の小説であり、月並みな感想だけど本当に読みやすい。
いままでピンとこなかった、古典文学はその当時のベストセラーであるということを初めて実感した作品でもある。エンターテインメントという言葉を使ってしまってもいいのではないか?と思ったくらい。
近年は古典や海外文学の翻訳が次々と新訳になるという、ちょっとした転換期とよべる時期であり、それは今も続いている。
若い世代が古典文学を読むにも、もう若くない世代が過去に挫折した〇ストエフスキーなどに再チャレンジするにも、現在は最適な時代ではないだろうか。
眉間にしわを寄せ、少し背伸びをするような読書もまた、良いものではあるけれど……。