恋愛小説がはっきり苦手と言える私は、ずっと敬遠していた朝井まかての『恋歌』という小説を、おそるおそる読んでみて「なんだ、恋愛小説じゃないじゃないか」と勝手に憤りつつも、ホッとして、読後にじわじわ感動するという、なんだかすごく遠回りな読書をしてしまった。
自分が読めたということは、恋愛小説ではない。ということで良いのかな?
しかし、思い込みや先入観とは恐ろしいもので、最初から最後まで恋愛というテーマを頭の片隅に置いたまま、物語を追っていたような気がする。
恋愛小説を求めて読んだ人は、もしかしたら物足りなく感じるかもしれないけれど、私などはその成分の少なさに助けられ、小説を読み終えてみると、結果的には純愛のように感じるのも好みであった。
一歩間違えば世間知らずのお嬢様による、おままごとな結婚に成り下がるところ。共に暮らす時間があまりにも少なかったことで、恋の魔法は解けず、幕末の悲劇を経たことによって愛が永遠に至った。そんな風に読むことも、できなくもない。
と、読者の物語への入り方によっては、感想が大きく異なる小説なのかも知れない。
思い込みや先入観だけではなく、事前に解説や書評などを読む読まないはもちろん、あらすじを知っているかどうかでさえ、けっこう影響があるのではないだろうか?
(私の場合、『恋歌』の後半の展開はまったくの予想外だった)
特に時代小説においては、史実を知っている人と、知らない人では、少し別の読み方をしているような気がする。
はじめに史実があって、膨大な史料や文献がある。それらに記されたちょっとしたエピソード、または、その欠けた部分や年表の空白。
そういったところから作家が仮説を立てたり、想像力で補ったり、という作業をしているのだと思うのだけど……。
残念ながら私は、そんな作家の努力を汲みとれない読者である。
樋口一葉は知っているけど、そもそも中島歌子という歌人を知らない。
当然、林忠左衛門以徳(はやしちゅうざえもんもちのり)などという人物も知らないし、天狗党という名前もどこかで聞いたことがある、ような気がする程度。
歴史上の事実を、作家がどう料理したのか?という読み方ができない。
そのかわりにできること、というか体験できることもある。
それは知らないことを知るという喜びと、物語の展開に驚くという快感。
シンプルに「面白いなぁ」という、歴史オンチなりの楽しみ方ができる。
和歌のことも、ほとんど何も知らないし興味もなかったけれど『恋歌』読んで、辞世の句という文化(?)は、現代に復活してもいいのではないかと思ったほど。
死にゆく人間が皆、人生の最後に詩歌を残すというのは、何だかとても素敵なことだと思う。
中島歌子の門下生、花圃が歌子の手記を読む明治のパート、ここまでが私が感覚的についていける時代で、登世(歌子)のパートである幕末、維新の頃になると一気に別世界、ちょんまげ、武士、切腹、のイメージとなり、遠い時代の話になってしまっていた。
しかし『恋歌』を読み、この二つの時代を生きた歌子の生涯を通して、本当につながっているんだ、という感覚が得られたのは大きな収穫だった。