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永い言い訳 西川美和

二兎を追う稀有な作家

私は同名の映画を鑑賞していないので、この小説が映画と同じ内容なのか?映画の原案に近いものなのか?その辺りのことはわからない。

通常であれば、映画の原作ということで良いのかと思う。

しかし、映画監督が自ら書いた小説である場合、やはりそこに何らかの意味を見出したくもなる。

映像では表現できないことを小説で……。そんな先入観というか、距離感で接することになってしまう。

とりあえず、はっきり言えることは(観てないのに)、これは映画のノベライズというレベルの作品ではないということ。

私は西川監督の小説を読んだのは初めてだけれど、文章がとても読みやすく、描写が心地よい。比喩表現もとても素敵だし、ちょっとしたエピソードが強く印象に残る。

これはもう、二兎追うのも良いのではないか!などと思ってしまった。

描写で読ませる=映像的と言って良いのかは微妙だけど、とにかく読んでいて絵が浮かんでくることは確かである。

ただ、極端な話をすれば、描写は映像で表現できるし、セリフは小説も映画もある程度は同じ役割を果している。

ならば、小説である意味って何だろう?と、考えてしまう訳である。

映画では描ききれなかったストーリーを補完する、という目的があるのかもしれない。

しかし、個人的には一人称の視点、心理描写というか、もっと直接的な声を書きたかったのでは?と思った。

登場人物によるナレーション的な手法は、映画では扱いにくいような気がするし……。

微妙な表情や仕草で表現されるものを、直接本人に語らせてしまう。

脇役も含めた、複数の登場人物の一人称視点が、その人物の内面はもちろん、別の角度からみた価値観の提示、状況の説明や場面転換など、心理的にも技術的にも効果的に使われている。


いったいどうして、こんなことになったのだろう?

頭ではわかっていることに、心と身体が追い付いてこない感覚。

悲嘆にくれる男と、薄情な男の対比。

疑似的な家族体験。子供たちへの愛情。

さらけだす醜い本音は、実のところ本物の感情と呼べるものなのだろうか?

物語の終盤、予想外の展開には、大きなうねりのようなものを感じ、あまり馴染みの無いタイプの感動を味わったような気がする。


これは、最後の一行に辿り着くための物語(だと思う)。

それだけのことに、これほどのプロセスが必要とされる。

要約すると意味を失ってしまう、人の心の繊細な動き。

小説と映画

私には、お気に入りの小説であればこそ、映画化されても観ないという依怙地なところがある。しかし本業が映画監督では、どうしても観てみなければという気持ちもある。

(とりあえず『永い言い訳』以外の映画はすべて観ている。)

小説がこれほど面白いと、西川美和の作品と今後どのように(どちら側と)付き合っていけばいいのかわからなくなる。

悩ましい問題として、小説、映画どちらかは必ずネタバレになるというジレンマを抱えることになってしまう。


もしも、小説と映画を合わせて本当の完成ということならば……。

まさに総合芸術である。

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