境界線を越えてゆく
個人的に、映画やドラマを観る本数(特に邦画)が、年々減ってきている。
その理由は、小説が原作/原案という作品が多すぎる。
この一点に尽きる。
まだ読んでいない小説は「内容を知りたくない」、お気に入りの小説は「ガッカリしたくない」、面白くなかった小説は「そもそも観る気にならない」という、なかなかの深みにハマっている状況。
私はいつだって小説を支持してきたので、映像作品に対してあまりフェアとは言えないのかもしれないけど……。
小説、映画ともに素晴らしかった作品はなんだろう?と思った時に、すぐに頭に浮かんだのが金城一紀の『GO』である。映画版の監督は行定勲、脚本は宮藤官九郎。
小説から映画、映画から小説。どちらでも楽しむことのできる傑作ではないだろうか?
金城一紀の小説は映像的にもイメージしやすく、現在テレビドラマや映画の原案、脚本を数多く手掛けていることも頷ける。
(ただ、そろそろ小説を読ませて欲しいのだけれど……。)
若者が登場する作品が多く、テンポよく軽く読めてしまうけど、読みやすいだけの作家ではない。
広い世界を見るということ
『GO』だけではなく、海外も含めて小説をたくさん読んだことが、私の国や人種に対しての考え方に大きな影響を与えたと思う。それは個人的にとてもラッキーなことであったと感じている。
小説の中の登場人物である。小説の舞台になる。たったそれだけのことで、知らない国、行ったことのない国や人に興味や好感を持つことができる。
「正一」という登場人物が語った「小説の力」というものを、『GO』という作品でも確かに感じた。
とは言え、難しく考えることなど何一つない。
シンプルにメチャクチャおもしろい小説なのだ。
ここでまず断っておきたいのだけれど、これは僕の恋愛に関する物語だ。
自分はいったい何者なのだ?という問いかけ、マイノリティであることの苛立ち、焦燥感を消し去ってくれそうな恋。
今まさに一人の若者が成長しているその瞬間。
もしかしたら『GO』は、作者がある一定の年齢を超えてしまうと、もう書くことはできない。そんなタイプの小説なのかもしれない。
私は小説のラストシーンの、ヒロインである女の子のとてもセクシーなセリフが大好きで、物語に何ともいえない説得力を与えていると思ったのだけど、映画ではそのセリフはカットされていて、なんだか普通の表現になっていた。
それが残念であると同時に、やっぱり小説いいなと思わせてくれたところでもある。
両親、祖父母、曾祖父母、もしかしたらそれ以前?自分のルーツというものは、どこまで遡るべきなのか?自分自身とのつながりはどこまで実感できるのか?
読んでいる時はとにかく楽しく、読み終えて色々と思うことがある。
そんな素敵な小説であった。