日常の中にある不思議
人が住んでいない家は、早く傷むと言う。
何故なのかと、子供の頃は不思議に思っていたが、よくよく考えてみると大人になった現在もその正確な理由を知らない。
おそらくは日差しや風通しなどの問題だと思うのだけれど、今となってはどうでもいいこと。
事実よりも、魅力的なフィクションを好む人間としては、この小説があれば事足りる。
亡くなった親友の実家で、ひとり暮らしを始めた売れない作家、綿貫征四郎。
連作短編として、それぞれに植物の名前が付けられた全28編だが、短編としてはどうにも短すぎるし、ショートショートと呼ぶにはそれほどオチもない。
シンプルに、作家(綿貫征四郎)が書いた日記として読むのが個人的には馴染むような気がした。
小説のタイトルである『家守綺譚(いえもりきたん)』
そもそも、なぜ奇譚ではなく綺譚と書くのか?
四季の風景、生命力あふれる植物、豊かな色彩。
その名に恥じぬ美しく風流な日々の暮らしが描かれているから。というのは事実ではあるけれど、この小説に書かれているのは季節の草花や樹木だけに限った話ではない。
そこに登場するのは、狐と狸から河童や鬼に至るまでのオールスター。どう考えても奇妙な話、いわゆる奇譚である。
しかし、妖怪変化が跋扈する怪談の類なのか?と聞かれたら、それはぜんぜん違う!と声を大にして言いたくなる、この微妙な感覚。このあたりが綺譚、なのだろうか?
サルスベリの木に惚れられる男。
主人公よりも活躍してしまう犬。
作家よりも、物を知っている隣家のおかみさん。
少し頼りない主人公の目を通して語られる話は、どのページを開いてみても安心するような懐かしさがあり、時々くすくすと笑わせてくれて、それでいて静かな驚きに満ちている。
文明の進歩は、瞬時、と見まごうほど迅速に起きるが、実際我々の精神は深いところでそれに付いていっておらぬのではないか。
この言葉には、深く思うところがあった。
本作に登場する植物に限らず、草花や樹木の名前はけっこう変わったものが多く、想像力をかきたてるものがある。
『家守綺譚』は、わたしが植物図鑑というものを購入するきっかけとなった小説であって、おかげで多少は植物の名前と外見が一致するようにはなった。
しかし数年後に小説を再読してみると、植物の姿かたちや、その色を知らなかった時に読んで想像したものの方が、幻想的で美しかったような気がする。
植物図鑑を手に入れたことは、果たして良いことだったのか?今となっては判断の難しいところであるけれど、実物よりも魅力的に見える(ように想像させる)文章を書くなんて、あらためて作者の言葉の力に感服した。