個人的に小説の中に小説家が登場する小説を好まない。
脇役ならまだいいけれど主役はキツイ。さらにその小説家が小説を書いているというストーリーならもっとキツイし、ましてや小説の中に登場する小説家が書いたとされる小説を、小説内で読まされるなんてもう最悪である!(すみません、個人の感想です)
しかし、佐藤正午の『鳩の撃退法』は上記すべてをやっているにもかかわらず傑作という、最高にゴキゲンな小説なのである!
【別の場所でふたりが出会っていれば、幸せになれたはずだった】
深夜のドーナツショップ。
新刊小説の帯に書かれたキャッチコピー。
これを見た男が言う。
「だったら、小説家は別の場所でふたりを出会わせるべきだろうな」
物語の始まりであり、とある事件が起こった日。
2月28日という一日の出来事を、あの手この手で解きほぐしていく。
断片的な情報、事件とは関係なさそうなエピソード。時間を巻き戻し、記憶を辿りながら、少しづつ明かされていく事実。
ある者は必然、またある者は意外な形で、つながっていく登場人物たち。
『鳩の撃退法』のユニークなところは、先の読めないストーリー展開、そこに割り込んでくる客観的かつ恣意的というなんとも曲者な視点。
語り手自らが手の内を明かしつつ、あなた(読者)の目の前で事実を拾いあげ、物語に組みこんでみせる。いつしか、この緊張感はどこで話を捻じ曲げるのかという、ちょっと読んだことのないドキドキだと気付く。
一歩間違えば大失敗するかもしれない構成の物語を、高度なテクニックで完成させている。けれど、本当にすごいのはその超絶技巧を感じさせないところだと思う。とにかくべらぼうに面白い。
登場人物たちの軽妙で皮肉の利いた会話の応酬がたまらない。しょうもない、けれども愛すべきユーモア。基本的には良質なコメディ。それでいて深刻さをキープし続けるミステリーとしての強度。
読んでる途中で早くも二回目を読むことを考えはじめている。
こんなことって滅多にない。
「ウェンディ、女の子ひとりは、男の子二十人よりやくにたつよ。」
『ピーター・パンとウェンディ』
物語のはじまりから、重要な小道具として作中に登場する『ピーター・パン』
すぐに主人公がなぜこの本を読んでいるのか、その理由が明かされるのだけれど、それだけでこの男のことがすっかり理解できたような気になるし、ここを引用して見せたことで、それは間違いではないことを確信。
この男の人生の基本スタイル。女はどんな活躍をするのか。その後の展開に期待が膨らむ、あるいは暗示する、短いながらも印象深いエピソード。
小説内で小説家が小説を書くという危険行為が、なぜ上手くいっているのかというと、主人公の語り手としての有能(または巧妙)さにあると思う。
ろくでもない男ではあるがそこは評価してあげないとな……。というか登場人物がみんな魅力的である理由、それは軽薄で皮肉屋の主人公のカッコ悪さにあるのかもしれない。