第45回メフィスト賞受賞作品。
個人的には2014年(出版は2013年)に読んだ小説の中でいちばん面白かった小説。できることなら本屋大賞を受賞してほしかった。ノミネートされてないけど……。
メフィスト賞受賞のデビュー作品で、タイトルに【魔女】とくると、本屋大賞ほどは興味が持てない人が多いかもしれないので少し付け加えると、著者である高田大介の専門は、印欧語比較文法・対照言語学。『図書館の魔女』は、現役の言語学者が書いた小説であるということ。
さすがというか、当然というか、なかなか難しい言葉が使われたりする。
そんな時にはネットではなく辞書を引くことが似合う小説、とでも言うのだろうか。結果にそれほどの違いはないけれど、間違いなく気分は盛り上がる。
現在のメフィスト賞は枚数に上限があるので、原稿用紙にして3500枚の大長編でデビューなんて作家は今後、登場しないかもしれない。
読む、聞く、見る、触れる。言葉の種類の多さに驚愕。
小説の時代設定のモデルとなっているのは、おそらく中世の後期。
印刷技術の進歩のおかげで一般の人々にも書物が身近になりつつある世界。
なぜ文字の読めない少年が図書館にやってきたのか?
どうして図書館の魔女の声をだれも聞いたことがないのか?
私のような、大人になったジブリっ子も満足させてくれるボーイ・ミーツ・ガールな冒険譚も素晴らしい。しかし、その手の小説ならば世の中にたくさんあると思う。
『図書館の魔女』のいちばんの魅力は、大人のためのファンタジーというよりも、とても現実的な(漢字が読めない、言葉の意味がわからないなど)理由によって、子供じゃ読めないファンタジーに仕上がっているところではないだろうか?
たとえ無駄に重ねてきた年齢であったとしても、これが大人の特権。使わないわけにはいかない。
圧倒的な知識量と細かな描写。
政治、外交、陰謀、権謀、言葉を駆使した情報戦。
ページを繰るたびに、自分が賢くなっていく(ような気がする)小説である。
また、『図書館の魔女』は物語の世界にどっぷりと浸かりながら、書物や言葉というものについて考えさせられる小説でもある。
とは言っても、別に難しいことを考えたわけでは無く、個人的で些細なこと。わたしは本を選ぶという行為について特に興味深く読んだ。
作中に登場するハルカゼ(司書)がいれば、私好みの本をお勧めしてくれるのかもしれないが、現実はそうもいかない。
物語の途中にたびたび挿入される、図書館の魔女による即席の書誌学、文献学講義。
マツリカ(図書館の魔女)が、錬金術や魔導書の類をすべてインチキであると斬り捨てる場面では、未来の予言ともとれるような言葉がある。
技術と経済の問題によって、書物を読む価値が広がると同時に、書物の物質的な価値は下がっていく。
言語を修め、書字を究めた人間が何年もかけて写本する必要が無くなり、複製されるべき書物を選ぶために、人が人生を費やす意味がなくなる。書物はただ刷られ、次々と増えていく。
この状況を図書館の魔女は、駄本があふれ、愚書がはびこる。とシニカルに批判する。
このことを現代に当てはめてみると、より恐ろしい現実が浮かんでくる。
自分が素晴らしい本とめぐり合う可能性。
その確率を引き下げるのは皮肉なことに、あまりにも多すぎる選択肢。
ひとりの人間が持っている限られた時間と比べてみると、もはや無限。
いつか膨大な冊数の本の前で途方に暮れる読書家たち。
いったいどうしたら良いのか?
もちろん、明確な答えが与えられるわけではない。しかし、その手掛かりになるような言葉が、この小説の中にはあるような気がする。
上下巻で約1400ページ(文庫版では全4巻)
質も量も圧倒的。価格もそれなりだけど、それだけの価値のある小説だと思う。
文字で読む言葉、耳で聞く言葉、目で見る言葉、身体で触れる言葉。
時間と体力があるならば、言葉の海に溺れてみてはいかがでしょうか?