短編小説でしか書けないこと
短編小説を読んでいて意外と困ってしまうのは、一つの短編を読み終えて次の短編を読み始めるまでの間、この時間である。
読み終えた短編が素晴らしいほど、すぐに次の一篇を読む気にはなれない。余韻に浸りたいというか、そうしないともったいないというか、次の短編にうまく入れないような気がする。
しかし、それは読書中に手持ちぶさたな時間ができるということでもあり、何だか落ち着かない。
個人的に長編小説ばかり読んでいるせいか、短編も最終的に一つのストーリーが見えてくるような連作短編が好みなのだけど、 本当は続けて読むことができるから好き、ということなのかもしれない。
活字中毒の弊害。もっと余裕を持って読書したいものである……。
『雪沼とその周辺』はそれぞれの短編が独立した物語であり完成度も高く、とてもじゃないけど次々と読み進めることなんてできない。
一度本を閉じ、呼吸を整える。何かが沁み込んでくるのを待っているような時間。まぁ、手持ちぶさたではあるけれど、たまらなく心地よい時間でもあった。
それでいて『雪沼とその周辺』というタイトル通りの絶妙な距離感を、読み進めていくうちに作品同士の間に感じられるようにもなる。
物語の舞台となる、雪沼という山あいにある小さな町とその周辺に暮らす人々。
私はその周辺という曖昧な言葉に、とてつもない広がりを感じた。
日々を生きる。時々、立ち止まる。
若いカップルが立ち寄った廃業直前のボーリング場から始まる、七つの短編。
最終フレーム。床に埋められたスタンス・ドットに立つ、ボーリング場のオーナーが想う、
しかし本当にこの立ち位置でよかったのだろうか。
これは、同じ土地であるということ以外に、すべての短編に共通する数少ないテーマかもしれない。
振り返った過去と、現在の自分がいる場所。
ドラマティックな大きな選択をしたわけではないけれど、誰しもが思う、これでよかったのだろうか?という、ふとした瞬間。
疑問とも後悔とも少し違うような気がするし、自分の人生に対する肯定ともまた違う。
そんな何とも言えない心情を呼び起こす。そのきっかけとなるのは、古い思い出や、時代遅れになってしまった物や場所であり、ごく個人的なこだわりであったりする。
もしかしたら、これこそが作品同士につながりを感じる、いちばん大きな理由なのかもしれない。
ごく普通の登場人物たちが、ささやかながら自分なりのスタンスを持っているのを見ると、なんだかとても勇気付けられる。
丁寧に掬い上げられる人々の営み。
見逃しかねない一瞬のハイライト。
うまく言えないけれど、短編小説でしか書けないことってあるのだと思う。