オリンピック景気に沸く東京
と言っても、2021年のではなく1964年の東京オリンピックのことである。
初めてのオリンピック開催を翌年に控え、建設ラッシュが続く東京。
スマートフォンと動画配信の時代に、電話とテレビが普及し始めた頃の物語を読んでいると、なんだか不思議な感覚にとらわれる。
懐かしいというか、ひと回りしてなんだか新鮮というか……。
このあたりは世代によって感想が違うのではないだろうか?
個人的には「そうかこの時代には、まだこれは無かったか!」という驚きがあった。実はこれが重要な場面でも効いてくる。
2度目の東京オリンピックが開催されたこともあって、どうしても過去と現在を比較してしまうのだと思う。
『罪の轍』はそんな時代のギャップを見事に利用した物語と言って良いかもしれない。
高度経済成長の真っただ中、世界初の一千万都市となった東京都。
人口の増加に交通と通信の発達。
新手の犯罪も増え始めて、複雑化する事件捜査。
捜査一課の刑事、空き巣の常習犯、山谷のドヤ外の住人、チンピラにヤクザに左翼運動家。
荒川区で起きた強盗殺人事件が、やがて思いもよらない別の事件へとつながっていく。
たばこの煙でかすむ捜査会議
今では考えられない驚異の喫煙率の中、連日行われる捜査会議は見どころ満載。
刑事、旅館の娘、空き巣。三つの視点で語られるストーリーをまとめ上げる役割も果たしているのが、この捜査会議と言えるのではないだろうか。
地道な聞き込み捜査。靴底をすり減らす捜査員たち。と同時に各々が密かに単独行動し、個人プレーにも走る。ホシを自分だけで挙げたいという刑事の習性。
ネタが上がってこない帳場。見えてこない犯人像。
捜査本部に焦りの色が広がり始める中、警察を翻弄し捜査の網の目をすり抜ける犯人。
しかし捕まらないのは犯人が有能だからでも捜査員たちが無能だからでもない、というところがこの小説の面白いところでもある。
重大な局面において警察が犯した大失態。
警察組織の縦割り構造、隠蔽体質、刑事同士の縄張り意識。当時の捜査の弊害となっていたものが、令和になった今でも続いてると知ったら刑事たちはきっと落胆するだろう。
大卒のやっかみを受ける主人公をはじめ、新米刑事、煙たがられるベテラン、曲者に切れ者。
男たちの執念の捜査からは一瞬たりとも目が離せない。
エンタメであり、その枠を少し外れた重みも持つ
動機以前の問題を掘り下げることで、浮かび上がってくるもの。
悪意はないが正義感もない。空き巣を繰り返す北国訛りの若い男。
流されるままに生きる。上京してきた田舎者の、空っぽの器に入る東京という刺激と無数の選択肢。
作中に何度も使われる莫迦と言うキーワード。少し知恵足らずと思われていた空き巣の寛治。記憶障害の疑いのあるこの男、私は本当の意味での莫迦ではないと思う。ならば何故?という所が最大の読みどころではないだろうか?
無知なのか、大胆なのか。とらえどころの無い男の行動のせいで、刑事だけではなく読者にも迷いが生じる。
いったい犯人は誰なのか?という緊張感。
その先にある心理戦。
ラストの畳みかけるような追跡劇。
読み終えた後しばらく顔を上げられなかった。
優れたエンターテインメント作品であり、さらにその枠からも少し外れた重さも併せ持つ傑作。
読むタイミングを間違えると徹夜する羽目になる面白さである。