純粋でちょっと変な女の子。
あみ子のことを、なるべく好意的に紹介するのであれば、こんな感じだろうか?
正確な時代背景はわからないけれど、両親のあみ子に対する接し方を見ていると(兄が暴走族になったことも踏まえて)、今よりは少し前の設定といったところか。
現在であれば、あみ子はおそらく注意欠如・多動症(ADHD)、アスペルガー症候群、学習障害など、何らかの発達障害ということになるのだと思う。
しかし、この時代では落ち着きのない困った子として扱われ、同級生からは空気の読めない馬鹿として認識されている。
もしも、あみ子に何らかの診断名が与えられていたら、家族の気持ちも少しは楽になっていたのではないだろうか?そんなことを考えてしまった。
そして母親が細かいことは気にしないポジティブな性格であったなら、まったく別の愛すべき物語になっていたかもしれない。
しかし、そんな見方をしていると『こちらあみ子』の魅力というか、何か大事なものを掴み損ねるような気がするので止めておきたい。
そもそも、まったく別の話になっていたというか『こちらあみ子』としては成り立たない。
いずれにせよ、愛すべき物語であることには変わりないと私は思う。
ちょっと角度は違うけれど……。
兄は不良になり、母は突然やる気をなくした。
口には出さない、行動には移さないだけであって、みんなが【あみ子的】な側面を持っているのだと思う。 周囲に迷惑をかけ、それなりに人を傷つけても良いのならば、私たちももっと自由にふるまうことができる。しかし、そうしないのにはそれだけの理由があるわけで……。
あみ子を馬鹿扱いする周囲の人間に怒りを感じる気持ちもある。
でも眉をひそめ、無視をしたり、邪険にする気持ちも十分に理解できてしまう。
そんな矛盾する気持ちが昔から今にいたるまで、ずっと自分の中にあることをこの小説は思い出させる。
誰もがいつかどこかで、あみ子っぽい人間と出会い、すれ違ってきているはず。
『こちらあみ子』に登場する人々。あみ子以外の誰でもいい、その人物の立場になってみたら、小説にでてくるような言動をとらないと言えるだろうか?
外から見てるだけなら何とでも言える。でも中の人になったら?
特に家族であれば途方に暮れてしまうだろう。
自分の家族のことをを恥ずかしく思ってしまう。これは精神的に相当きついことなのではないだろうか?
本人にはまったく悪意のない(あみ子的には善意の)行動に、というかその行動原理が理解できないことに、それぞれが違う形で絶望してしまう家族。
無邪気で残酷な真実(チョコレートクッキー)
ほとんどの子供が持っている残酷さ。これをあみ子の側にも同級生の側にも見ることができる。
自分たちと違うものを、はっきりと違うと言ってのける子供たち。一見、その被害者のようにも見え、かわいそうに思えるあみ子もまた、その性質を持っている。むしろ、あみ子の方が純粋で無垢であるため、より残酷だと言えるかもしれない。
あみ子あこがれの同級生である、のり君。
恥をかくことを死ぬほど恐れている年頃の男子と、抑えの利かない正直さを持ち続けたまま中学生になったあみ子。
二人の保健室でのくだりは、心をがっちりと掴まれた印象的なシーン。
笑っていいのか?泣いたらいいのか?喜怒哀楽すべてがミックスされたような、何がどう凄いのか説明できないけれど、とても美しい(衝撃の)瞬間。
個人的にはこの小説のハイライトである。
あみ子のような人間と対面したときに、その人の本音のようなものが見えてくるのかもしれない。
自分自身を映す鏡であり、それは決して見ていて気分の良くなるものではないだろう。
悲しみ、あきらめ、そして残酷さを浮き彫りにする物語。
それでも、同じくらいとまでは言わないけれど、注意深く(丁寧に)読めば、善意とやさしさも感じられる小説だと思う。